人に伝えるということ。

 人に、自分の考えていることを伝えるということ、自分が感じたことを伝えるということ、その伝えるということは大変難しいことです。現に、私もこうして人に伝えるための文章を吐き出すということに大変な苦痛を感じながら書き綴っています。難しくて。
 もちろん、そんなことは今始まったことではありません。昔から、伝えるという努力は続けられています。たとえば、文言一致運動などはその最たる例です。もともと書くための言語と話すための言語が別々だったものを、一致させていくという運動が起こったのは、多くの人に考えを伝えるための工夫からでした。それが、今では地の文まで会話調の文章まで出版されるほど、多様化しています。伝える努力・工夫の積み重ねが、ついにここまで来たのか、という感慨も私にはあります。
 しかし、それだけの努力・工夫を重ねても、なお難しい問題です。目の前にいる人に伝えるというだけでも、大変に難しい作業なのに、多くの人に見てもらって、誤解の生まれないような伝え方をしていくのは、それ以上に難しい。それでも、日常の中でそういった作業が要求されるわけです。
 ただ、それを苦痛だと考えるのは、伝えるということの一面しか見ていないと言えるのではないかと私は考えています。伝えるということは、時間を、考えを、感情を、共有していくということです。様々なものを共有できるということは、とても嬉しい・楽しいことなのではないかと思います。たとえば、旅に行ったエピソードを、伝えていく。そのことで、相手を楽しい気持ちにしたり、旅にいきたいという気持ちにしたり、そういった影響を与えることも出来るし、自分の旅の楽しさを共有できる時間でもあるわけです。もちろん、一緒に旅に行くのが一番なのでしょうけれど、どうしても出来ないことはあるものです。
 そういう、伝えるということを日々重ねながら、もっとうまく、相手と様々なものを共有していきたい。そう考えています。

化学における基礎・基本とは?

 最近、このことをしきりに考えています。普通、大学で化学を専門にしていても、こんなことには興味もないでしょう。なぜ、私がこんなことを考えるようになったかと言うと、大学での専門が「計算化学」になったからです。計算と基礎・基本、どういう関係があるのかなんて、やってみないとわからないことかも知れません。
 そういうわけですから、そもそも、計算化学って何なのか、というところから話していく必要があると思うわけです。計算化学とは、簡単に言うと「物理と数学によって化学を創る学問」です。これが、計算化学という研究分野そのものの本質だと思います。そして、これは究極の理論化学なのです。
 化学を創る、とは、本物のような化合物や化学反応を創ったりすることができるということです。これは、化学という学問の、そして物質の本質によるものです。
 化合物の構造、化学反応など、化学として扱う範囲のものは、全て電子の挙動によって規定されます。そして、その電子の挙動は、電子の持つエネルギーと、電子にかかる電場によって規定されます。ということは、電子の持つエネルギーと電子にかかる電場を数式として表すことができたなら、計算によって電子の位置とその運動を求めることができるということになります。これを行うのが計算化学です。
 しかし、こんなことを基礎・基本として用いるべきだ、などとは微塵も思っていません。難しすぎますから。私もコンピュータを操作しているだけで、実際に手計算を行おうなどと考えたことはありません。
 では、果たして何が基礎なのでしょうか。
 それは、電子の挙動を考えること、それが化学反応、化学的性質を決めている本質なのだということを理解するということです。そして、それを簡易的に用いれば、ほとんどの反応を考えることができます。それは、電気陰性度というパラメータです。電気陰性度とは、原子ごとに決まっている値で、どの程度の力で電子をひきつけることができるかということを表すパラメータです。
 これを用いれば、計算を行わずとも感覚的に電子の挙動を考え、分子内の電子の濃淡を見つけることができます。そうすれば、複雑な計算がなくとも、化学反応を考えることができます。
 あとは、中学校程度のレベルの物理さえ考えられれば、電気的に引き合うという概念がありますから、それを用いて化学反応を考えることができるようになります。

教員に必要な資質

 最近、どの都道府県の教育委員会でも、この件について色々考えてるみたいですね。今日は埼玉県、明日は東京都の教員採用試験で、きっとその答えの一端を見ることができるでしょう。私自身、明日の東京都教員採用試験を受験する身ですので、その点についてはとても楽しみにしています。
 ところで、教員に必要な資質を考える際に、一体何を基準に考えるのか、疑問に思う方も多いのではないでしょうか? 結論から言うと、この点だけを見ればそれでOK、ということはありません。教員として必要なのは、人間としての人格が正しく発達していることです。よく考えれば、人間として当たり前のことなのですが、出来ていない人も多いのです。と言っても、これだけでは"教師"としての資質とは言い切れないのではないかと私は考えるわけです。そこで、教師としての仕事から、それを考えていきたいと思います。
 教師としての最大の仕事は、私は「子どもがより良く生きていくための力を養っていくこと」だと考えています。それは、目標を自分で決め、目標に向かっていく為の手立てを考え、それに従って努力し、クリアしていくというプロセスであったり、それらのプロセスの中で必要な知識・技能を身につけることであったり、他人と協力するなどの様々なプロセスの在り方であったり、ということです。それらを子どもが身につけ、成長していくには、教師は様々な立場から子どもを観察し、アドバイスや手助けなど必要な手立てを講じていく必要があります。
 そうした教師の仕事の意義や内容を鑑みると、教師にとって様々な能力が必要になるということがわかってきます。例えば、観察力や分析力、指導力、カウンセリングマインドなどです。子どもをよく見て、その子どもにとって今足りないのはどんな部分なのかを分析し、それらを指導したり、時には相談相手になったりなど、実に様々な視点から子どもに接していく必要があります。そして、これらは一つとして欠けていていいというわけではないのです。
 従って、教師として様々な場面で必要とされる全ての能力が必要になるということがわかります。しかし、これらの力の全てを最初から身につけている人などほとんどいません。
 そこで、教師となってから、これらの力の中で自分に足りないものを身につけて、自分を高めていく努力をしていくことができることこそ、教師として最も重要な資質であると私は考えています。

改正教育基本法の理念とそれに対する批判との乖離

 そもそも、改正教育基本法の目指しているものは、旧教育基本法の理念と全く違うものです。それを誤解した批判というのが大変多く、私自身の勉強にもなりましたし、教師の一部には物事の判断の出来ない人たちが含まれていて、それが問題なのだということを改めて痛感いたしました。
 では、その改正教育基本法の理念とは一体何なのでしょうか。それを理解するには、そのまえに旧教育基本法が成立した背景を知っておく必要があります。
 旧教育基本法は、戦後まもなく制定されました。それは、GHQの指導の下ではありましたが、戦前の教育から脱却するんだ、民主化された教育を目指すんだということを明確に示すための法律として、そして憲法に次ぐ重要な法律だということを明示するために基本法の名を冠されて、成立したのです。そのために、内容も日本国憲法において新たに認められた権利や考え方を擁護する立場のもので、逆に戦前の日本にあって諸外国から疎まれた愛国心などは削除された内容となっています。そのため、旧法成立当時から批判がありました。
 今回は、その点について、小泉純一郎前首相の「聖域なき改革」の方針の実現のための一部として、改めて教育基本法を改正していこうということで、中央教育審議会に諮問して改正の方向性を定めたものがそのまま教育基本法の原案として上がってきていました。また、国際化していく中で、世界中で活躍し、日本の発展に寄与できる人材の育成を掲げたという、日本の国益だけでなく世界の利益を考えた法案となっていたという点で、私は高く評価していました。もちろん、自民党の横暴なやり方には苦々しく思っていましたが。もう少し早く法案を作って、様々な場面で説明していけていれば、批判自体も小さく収まったでしょうし、何より教育行政に対する信頼回復のためと考えれば、安い投資だったのではないでしょうか。

ゆとり教育

 ゆとり教育は悪いと長らく言われてきました。教育内容が少なすぎる、と。しかし、その批判は実は大変的外れなものだったということを2つの側面から述べたいと思います。
 1つは、誤った報道がなされたという点です。例えば、現行の学習指導要領が発表されたあと、ある報道番組では「新指導要領では、円周率を3として教える」という内容の報道がなされました。しかし、実際の指導要領の文面には、「(前略) 実際に、幾つかの円について、直径と円周を測定し、どんな大きさの円についても、円周の直径に対する割合がおよそ3になっていることを見出せるようにする。(中略)円周率としては3.14を用いるが、円周や面積の見積りをするなど目的によっては3として処理していくことを取り扱うことにも配慮する必要がある。」と書かれており、円周率は3.14として教える、3は見積りの計算の際に用いる、という書き方で、円周率を3とするなどとは書かれていません。このような明らかな誤報道により、多くの国民に対して誤った学習指導要領批判を植えつける結果に至ったのです。
 もう1つは、ゆとり教育が目指したものと指導要領批判の観点は全く違うものであるから、きちんとした説明を出来なかった文部科学大臣以下文部科学省全体にも問題があるけれども、それ以上に批判対象に対する勉強を怠った報道関係者及びそのような報道に対して正しいメディアリテラシーというものがなく自分の意見を持つことが出来なかった多くの国民に問題があるのです。そもそも、ゆとり教育が目指したのは、文部科学省の言っていたような中途半端な教育方針ではありません。もともとのねらいというのは、PISAで最上位の得点を取り続けている北欧のような学校のスタイルを目指した内容です。これまでの日本の小学校では、徹底的な知識伝達と、それらの情報を元に自分で考えていくことの出来る一部の子どもを伸ばしていくという傾向がありました。しかし、それは本来教育が目指した姿とは乖離していました。本当は、一人ひとりの子どもが、達成したときの歓びを持って次の学習に対しても意欲を持って取り組んでいける姿というのが、教育の目指した姿だったのです。これを取り戻すために、内容を精選して深く思考することで、これまで以上に多くの子どもが学ぶ楽しみを得ることが出来るようにしよう、というのが現行の学習指導要領だったのです。それに対して、学習指導要領批判をしていた人というのは、「内容が少ないから学力が低下するんだ」という一点張りで、このような背景を考慮していないので、論点自体がずれてしまっていると言わざるを得ません。既にこのような学習スタイルを取り入れている北欧が学力が高くて、以前までの学習指導要領にしたがって学習を進めていた子ども達の学力が低いのは何故でしょうか。どちらのスタイルが良いといえるのでしょうか?

注目の素材・白金

 白金は、化学の世界ではごく狭い範囲にしか用いられていません。というのは、化学反応は、そのほとんどが溶液中で行われるのですが、白金はそもそも反応しにくいので、化合物を作りにくいため溶液に溶けるような形にならないのです。そこで、触媒などの限られた範囲にだけこれまで利用されてきました。
 しかし、白金には他の金属にはない様々な触媒としての能力があり、それに代わる金属は未だに発見されていないのが現状です。そのため、車の排気ガス処理用の触媒や、石油の処理など、重要な用途が沢山あります。しかし、産出量は極少ないために、常に原料不足で、1g1万なんていう馬鹿みたいな値段がついています。
 それが、今みたいな状況になると白金の価格が更に値上がりしちゃったりするわけなんですけど、そうなると大変なんですよ。白金を別の金属で置き換えられないから、きっといろんな製品が値上がりしちゃうなんて結果になると思います。たとえば、ガソリンなどです。

 そんな白金ですから、化粧品などに入れたらきっと効果があるんじゃないか…!なんて思うのも無理はありません。特異な性質を持っているのが白金の特徴ですし。ただ、私は白金を化粧品や食品に入れてもほとんど効果ないと思うんです。むしろ、白金のナノパーティクルなんて入れたら、化粧品や食品の中の有機化合物が色々変化しちゃって、効き目が減るんじゃないでしょうか。そこがとても心配なのですが、私としてもこの流れは面白いので、白金入りのガムなど買って食べちゃってたりしますけど。